六代目円生

今日は昭和の名人といわれた落語家(噺家といったほうがふさわしいかも)六代目三遊亭円生の命日であるとともに誕生日です.千葉の習志野市での落語会の最中に気分が悪くなりそのまま他界してしまいました.芸人にとっては高座で(楽屋に戻ってからですが)亡くなったというのは本望なのでしょうか.
円生師は、子どもの頃は義太夫語りで「豊竹豆仮名太夫」を名乗り寄席に出ていましたが、伊香保温泉の石段で転び胸を打ち、大きな声を出すことは無理な状態になり、『落語』なら大丈夫と噺家になりました.寄席に出ていましたから他の噺家の演じているのを聞き覚えていましたから、すぐにでも勤まったといいます.そして上手かったそうです.
その後母親の再婚により、五代目の円生(俗にお相撲の円生といわれた)師の養子となりました.戦時中に志ん生師と満州に慰問に行き終戦を迎え、帰ってきてから寄席に復帰していました.その後、人形町の末広で独演会を開くようになってからメキメキと輝き始め、落語協会の会長職にもつき、会の改善運営にあたりました.そして、例の協会分裂騒動があり、三遊協会を旗揚げしたものの、寄席には出られなくなり全国のホールなどで一門会を開催していました.そしてまもなく残念なことになりました.亡くなったときに、上野動物園のパンダが死亡し、新聞記事がどちらが大きかったなどと落語ファンの間で話の種になってしまいました.
円生師については、著書も多く落語界の貴重な記録としても残り、また読み物としても面白く書けていますので、興味のある方はお読みになってみてください.青蛙房刊「寄席育ち」「明治の寄席芸人」他、速記としての「円生全集」、音源ではソニーから「円生百席」「人情噺集成」他にも音源化されたものが数多くあります.私は、追っかけのようなこともしていたこともあり、円生師は大好きな噺家の一人です.円朝という名跡を継ぐとすれば円生師をおいてほかにはいないと思いました。女性を演じたらピカ一でしょう、軽い噺から人情噺、芝居噺、音曲噺までどれを聴いてもハズレはありません.是非聞いていただきたい噺家の一人です.